一時途切れるがお話は続く

昭和48年09月20日 朝の御理解



 御理解 第61節
 「神より金光大神に、何時までも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をして行くのが、真の道を踏んで行くのぞ。金光大神が教えた事を違わぬ様に人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。惟が神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな」

 尽きぬおかげ、尽きぬおかげの頂けれる信心。それを先ずは私共が一人一人身に付けて行く事が、その事に確信が持てると言うか、そういうおかげを信心して頂かねどならぬ。おかげがそこで止まっておるとか、途絶えると言う様な事では。尽きぬおかげ、しかもこのままおかげを頂いていけば、限りなくおかげを受けられると言う事はこの世だけではない、この信心を頂いていけば、あの世でも助かられるぞと確信出来れる。尽きぬおかげとはそう言う事だと思うんです。
 それが完璧に助かってしまうというならば、この方の事を皆が神、神というが皆も此の様なおかげが受けられると仰るが、そう言う神を目指して進んでおると言う。このままこのまま進んでいけば間違いないんだぞと。私は今朝ここに座らせて頂いて、母が此処に座っておる。繁雄さんが座っておられる。高橋さんが座っておられる。皆さんが此処へ沢山座っておられるけれども、何時もの様に、何時もの場所で朝の御祈念を頂いておれると言う事は、大変有難い事ですよ。
 私はそれを何かしきりに有難いと思うた。ですからそこの事を有難いと思わせて頂きながら開かせて頂いたら、この六十一節を頂いたんですけれども、特に神への御礼ぞと言う事、これは金光大神が教えた事を違わぬ様に人に伝えて、真の信心をさせるのが神への御礼ぞとこう仰る。その真それはどう言う事がと言うと、今尽きぬおかげをこの調子を落さなかったら、此のままおかげを頂いて行ったら、尽きぬおかげに繋がられると言う事。しかも惟はあの世までもこの調子で行けば。
 おかげが頂いて行けるどという確信、そういうおかげをだからその信心の段階に於いてはです、なら一から十までを神へ向かう信心をするならです、唯その一を出発したという人もありましょうし今、二、三かを通っとる人もありましょうし、だから十まで行ってしまっておらねばという神ではない。私がこの信心を落しさえしなかったら、この信心を此の様にしてです、例えばなら今日、この場で此の様に、信心の稽古をさせて頂いておると言う事、その事はです有難い。
 自分が今完璧に助かっておると言う事じゃないけれども、助かる道を唯真っ直ぐ進ませて頂いておると言う事だけ。ですから此の事がお願いがあるから、お願いの事だけを頼みに参るというのとは違うのです。例えばなら今朝の御祈念の常連と申しますかね、ここに朝の御祈念に来てお日参り的な信心をなさっている方達はその実感が出来る所まで、信心が出来なければいけないと思います。
 例えば目先の事が右になったり、左になったりと言った様な事でなくてです、だから金光大神が尽きぬおかげを話にしておくと仰るのは、そう言う事ではないでしょうか自分で段々確信が持てれて来る。此の儘の信心を落とさずに、此の儘の信心が続けられて行けばです、おかげは受けられるという、それがこの世だけではない、あの世までも助かりに繋がるんだと言う時に信心が愈々尊い有難い。
 そして又一歩づつでも神へ近付く伊て行く事の楽しさと言う物がね、言えるのじゃないかとこう思うのです。ですから私はこの人に違わぬ様に伝えて行くと言う事は、なら教えて下さった事、例えば今信心の段階を一から十まであると致しましても、ですからその段階に於いてですから、同じ御理解を受けてもね、その受け方はそれぞれに違うと思うんです。始の所を有難い思うて方もあろう。
 真ん中の所が適切に私が頂かんならんと思う人があろう最後のところを、ああ成程そうだと合点する事もあろう。それは信心の過程なのですからね。そこで一番、間違いのない金光大神の信心の受け止め方というのは、現在私がおかげを受けておる其の事だと、私自身が今助かっておる、いやこのまま行けば助かられるぞと言う確信。是が一番間違いのない事だと思うです。
 例えば御理解を頂いて、十五分なら十五分の御理解をこう頂かしてもらいます、それをそのまま、聞いて帰ってそのまま伝えると言う事は、成程金光大神の言う事に違わぬ様に、伝える事になりましょうけれどもそれはです、私は実感として伝わって行かないと思う。自分の頂いた所をその人も有難く頂いてくれれば良いのですけれども今言う様に、信心の過程によってその頂き止め方が違うのですから、結局私が助かっておると言う所をです、伝えると言う事が一番間違いないと思うです。
 又それを伝えると言う事は、無言で伝えると言う事もありますからね、口でだけじゃありません。例えば息子さんがお母さんの信心を見て、成程母の生き方が一番素晴らしいなあと、成程あの生き方で行けば間違いないなあと、あの様な心の状態になったら人間も楽じゃろうなあと言う様なね、自分の助かっておる姿を見せて行くと言う事が一番素晴らしいです。 その助かっておる程度と言う物は、もう本当にそれぞれ違いますですね。
  (少し間がある)
 昨日ある方が此処でお届けをされた。その方は何時も此処のお月次祭の日を自分所の神様も同じお月次祭の日として、まあ形ばかりではあるけれども、私の家のお月次祭の日として、お祭りを御自身が仕えて行かれる。もうこりゃー親先生もう不思議と言うか有難いとういか、もう月次祭の日にはもう必ず色々とあっちからこっちからと御供えを頂く、今日はあなたの家の月次祭じゃからと言うて皆が知っとられる訳じゃない。自分の心の中で仕えられる。もう随分なりましょう。
 もう十年もそれ以上もなるでしょう、そういう生き方で。そこにです、なるほど神様が喜んで頂く、例えばお祭りをすると言う事は、御礼を申し上げると言う事。月に四回なら四回という、もうささやかながら自分のお神様の前に御神前のお掃除もさせて貰う。お榊を替えさせてもらう、そして明々とお灯明を奉って、そして神様が集めて下さった、お供え物を瑞々しい思いでお供えして、月次祭から月次祭までの事を心から御礼申し上げるとこういうのである。
 皆さんそんな事をなさっておられないですか。私も信者時代これは必ず続けました。私ももう又間違いなく神様の働きというかね、何かその事を如何に神様が喜ばれかと言う事を感ずるのです。もう日頃もうそのあっちこっちから頂き物、そう何時もかつもあるもんじゃないです。けども野菜が来る、果物が来る。たまには御神酒を頂く事もある。お魚を頂く事もある。乾物缶詰と言った様なもう本当にそれが一品宛でも集まって来る事は、ああ神様の間違いなさと言うことを愈々確信出来る。
 だから成程神様に喜んで頂くという精神をもってすれば、神様が此の様に言う事を聞いて下さる。いや神様がおかげ下さるという確信が素晴らしいですね。惟は純粋な真心一心でそれをなされる時に、そこにそういう体験が生まれて来る、今日の御理解でいうと、所謂成程愈々神様が喜んで頂ける様な、心の状態を頂き続けて行くと言う事になると、それは御供えだけの事ではない一切が、そういうおかげが受けられる。
 私がまだ信者時代におかげを頂いて、借金を沢山もっておる時分です。丁度その日は月次祭に当たっておりましたから、色々頂く物もうその当時はお供えが、もうそれこそ御神前にうず高くお供えしておりました。まだ信者時代の所謂私が一人で家族中で神様へ御礼を申し上げて、それは勿論お野菜が何日も中心でしたけれども、もう本当に一杯お供えを頂きよりました。そういうある日、私に金を貸して下さっておる所のお母さんという人が、此の人も中々の人でしたが。
 もう私の前の上がり口に腰掛けられて、足をこう女親分の様な人でした。あんたしらごだばかり言うちから、何日払うてくれるかと、それが今もうこげなふうでね、商売の方も都合よういかんし、もう神様のおかげを頂かねばいけん。ちょいとその方も信心しなさる方ですから、ちょいと私の方の御信心を見て下さいと、あの野菜でもあのお米でも、私はが買うち来て供えたんじゃなくて、もう本当に、細々ながら、お野菜なんか買うた事は無いと言う位に、神様が集めて下さる。
 お米なんかでも、穀物、麦やらお米やらお供えしとりました。あんなふうですからね、神様が必ずおかげ下さる時であろうから、それまで待って下さいと言うて私が頼みましたら、野菜やら米やらは集まって来るか知らんばってん、お金やらをどうして集まって来るのちゅうちから、えらい言われた事があった。私の心の中には、いいや金だけじゃない、物だけじゃない、必ず金も神様のおかげで集まって来ると私は確信してましたから、それを言うのです、野菜やら米やらは集まって来る。
 その帰りには、野菜を下げて、お米もまあ少しじゃあるけれども、一升か二升かもちろん、これは金の代わりじゃないけれども、わざわざ集金に来て頂いたから、帰りかげにはことづけて帰ると、もう又少し気分を和らげて、帰っておられました。それでそれはどう言う事かというと、この信心を続けてさえ行けば、間違いさえなければ、いや神様が喜んで頂く心が分かって、その心に添うてさえ行けば、野菜だけじゃない、米だけじゃない、お金だけじゃない。
 一切の物が人間の幸せの条件の全てがね、集まるんだという、確信がいよいよ強うなった。私はそのう助かりの確信というのは、それが段々是は神様に喜んで頂くというか、惟は神様が喜びなさるだろうと思う心を育てて行くと言うこと信心とは。だからそれが育って行っておるんですから、成程この調子で行きゃ神様にもなれるぞ、生神とは皆が受けられると仰るが、これは一生掛りで出来ん時には、あの喜びでもこの道を辿らしてさえ頂けば良いんだという安心が生まれて来るでしょう。惟が助かりなんです。
 昨日そのお届けに来られて方も、やっぱりそうでした。もう十何年でしょうか、それ以上かも知れません。椛目の始から御信心なさっておる方ですから、今日は自分所の月次祭と、こう心に定めてからお祭りさせて頂く様になったら、必ず神様がその印を見せて下さる。所がこの十八日の月次祭の日だけはもう、何にもお供えが出来ん。本当に神様に相済まん事である。御無礼させて頂いておる、何か神様に御無礼があろうと。それから仕方がないですから、もう夜のお月次祭ですから、家族中でお参りさせて頂いて。
 帰らせて頂いたら隣の方があなた達のおんなさらん時に、福岡から何々さんという方が見えちからね、あのお隣に来ましたけれどもおんなさらんから、是を上げといて下さいと言うて、是をことづかっとるばのと言うちから下された。それが一点、それから又一点と言う風にです、帰っとったら集まった。さあそれから神様が印を見せて下さったと思うて、お三宝二台ではあるけれども、それを御神前にお供えして、心から厚く御礼を申しあげたとこう言うとられる。
 所がお隣の人が持って来らっしゃてからです、もうそうにゃあんたんとこ裏が明かっとったと。呼んだばってん誰もおんなさらんじゃったもんじゃけんでとこう言われる。所が実は嫁が一人留守番をしとった。だから家の嫁はそげん所がある。人から言われたっちゃ返事をしなかったり出て行かなかったりする事があるけん。あんた隣の人がそうにゃ起さっしゃった。もしもしと言うてから持って来てやんなさった相手があんた、居ってから気づかじゃったのと言うたらその言い方がね。
 気づかじゃったと言う意味の事を、まあつんけんとこう言われたというお届けを昨日されたんです。本当にあんたがそこ迄は助かっとるばってんが、それからが助かっとらんのと言うた事でした。隣からを持って来て下さった、こっちからあれを持って来て下さった、それからおかげでお祭りが出来た。神様の間違いなさに有難い、その有難いだけでようはなかったの。隣から持って来て下さったばってあんたが出らじゃったげなけん、げなと言う事はです、もう嫁を責める事にあるじゃないか。
 責める事だから嫁が又、それに白々しい返事をする事になるじゃないか。そこに自分の心を汚さなけりゃならんじゃないか。おかしな話ね。その辺の所は、私どんそげな事は全然なかねと言うて話した事でしたけれども。然しまあよう言う所じゃないでしょうかね。隣から持って来て、あんた留守番しておっとろうばってん、どけ行っとったのとよう言うでしょう。ですからもう責めた積りは無いけれども。
 責めた事になるから白々しい返事が帰って来る。折角有難いだから此処からか又あなたの助かりを、本当にそればいうて頂かにゃ、私それを責めると思わんなりに言うておる事がやっぱり責める事になっとる証拠にゃ冷たい白々しい返事が帰って来ると言う所にです、自分の助かりがなら嫁に伝える事が出来んのじゃないかそう言う事では。本当にお母さんが例えば、たったお三宝二台じゃあるけれども。
 お供えが間違いないのう本当に神様ちゃ間違いないのう、今からちょいと御礼申さして頂こうというだげであったら、そういうあり方なら、娘が付いて来んはずはなか。あんた留守番しとってから、隣から尋ねて来なさったけれども、あんたが返事せんじったげなけんでおらんかと、思うちゃった事あるふうばいのと、そこにですまだ本当の助かりがあってない。そこまでは助かっとる。けれどもそれからが助かってない。
 それからの助かりがです、例えば野菜だけじゃない、お米だけじゃない。言うならばお酒じゃろうがお金じゃろうがです、集まって来るおかげの伴のうて来る信心がいうなら、なされなければいけないと言う風に感ずるです。そういう助かり方こそがです、私は無言の中に人に伝えて行くというおかげに成って来ると思う。助かると言う事は自分ここまでは助かっておるから、是からの、助かりを目指さなければいけない。本当に先生が黙って治めると仰るが、黙って治めると言う事は。
 暖かい心で黙っておるのでなければいかん。もう家の嫁御はあげなふうじゃん。わざわざ来とんなさるとに返事もせんでおるけんで、こげなこつと思いながら、黙っておったんじゃ詰らん。そんな事はもう全然問題にならんくらいな心でなかったらもっと暖かい心をもって、黙って治めて行けれる状態と言う物がです、自分の心の助かりの状態なんです。自分が助かって行く程間違いない。人じゃない間違いない、その間違いないものが人に伝わって行かないはずがない。それが神様への御礼と言う事になる。
 月次祭を決めてそして月次祭にお礼を申し上げる事も惟は、形の御礼。けれども心の上で御礼を申し上げねば、そういう心には人も付いて来るという。その御礼こそがそれが神になるのぞと言う事になるのです。助かりが進んで、その助かりの度合いがです、例えば五助かっとるならば次の六を目指さなければ、神になると言う事にはならんでしょう。それで此の儘この調子で行けば、おかげが受けられるという助かりが愈々確信的なものになって、此の助かりこそあの世まで持って行けれるんだという。
 (ここで一時切れたが元音声は続いている)
 愈々本当の安心のおかげが受けられると言う事になるのです。神より上になるとは思うなと云う事は、只神様には、只神様を使う事しか覚えてない信心では、惟は神より上になっとる証拠です。番頭さん召使を使う様に、女中さんを使う様に、一寸こればあちらに持って行ってくれ、今から何処、何処に集金に行くけんで、どうぞお願いしますだけのもし願いであったらです、惟は神様を使うておる様なもんです。
 神を使うと言う事、お願いをすると言う事も有難いけれども、それよりももっともっとだから大事な事は、神様に使われるという心なんです。神様に使われると言う事は、私が真実の助かりを得て、その助かりを形の上にでも、無言の上にでも、人に伝えれると言う事が、神様への御礼という。しかもそれが神になるのぞと教えられるのですから、そういう助かりの時点をです又次の時点へ進めて行かねばいけんのです。
   どうぞ。